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患者さんからの手紙「ピンチとチャンス」
 山崎寿美子結婚して四十数年、人生の後半へ来て初めて家移りの経験をした。引っ越した先は昨年富山市になった旧婦負郡である。家は古く、先々代が好きだったらしい平庭に松の木が三本植えてあった。もとより小さくても庭のある家を引っ越しの条件にしていたので、決まった時はまんざらでもなかった。ところが樹木のある庭というのは、どんなに経費が掛かるかなど計算になかった。

 まず晩秋になると雪釣り作業があって、自分たちには手に負えず、造園業者に依頼した。剪定をふくめて万札が二十枚以上の請求が来た。ゼロが一つ余計なのではないかと、その筋の知識の無い私は声を上げて驚いた。翌年からこの地域のシルバーセンターへ剪定作業と雪釣りをお願いすることにして、我が家の経費削減にこれつとめたものの、そんなに軽くなるわけでもない。私はかねてから庭木の剪定に関心を持っていた。ほんの少しでいいから基礎知識が欲しかった。おりしも広告で目についた「文部科学省認定社会通信教育」「樹木の手入れ」を怖いもの知らずで早速申し込むと数日してダンボールの箱詰めになった教材がどさんと送られてきた。

 実はその頃静養中の術後の痛みから解放されたくて何かに集中できたらと、通信教員を申し込んだという事情もあった。だが実際には箱詰めの教材に手が付かず、その後も人様が良いと言われれば、どんな治療でも受ける羽目になり、年が変わっても病院探しに悪戦苦闘していた。

 一方「うつ病」で悩み、闇から抜け出した人の話題が頻繁に新聞紙上をにぎわすようになった。私の場合「痛み」からのストレスで「うつ」そっくりの症状になり、医師から抗うつ剤が処方されることになった。人に逢うのが嫌になり、読み書きが嫌になり、何処へも出ていくのが億劫になった。朝は起きられず腕を動かす掃除は専ら夫任せである。「痛み」と「うつ」状態という二重の呪縛を抱えて、生きることさえ「もうどうでもよく」怒りも感動も笑いさえも沸いてこなくなっていた。

 初診の整形外科の医師に思いあぐねて勇気を出して会いに行った。「どうしてこんなに長く痛みが取れないのでしょうか、もう三年目になります」。医師は戸惑うこともなく、膝を打つようにして言った。

「貴方の場合は術前の痛みがあまりにもひどかったので、それを脳が記憶しているのです」
「なんで、そんなことが本当にあるのですか?」
「あるのです。例えば事故で片腕半分を切断して、手の部分が無いのですよ。それなのに指の先が痛い、痛いと言われる患者さんがいます。同じことなのです」

 私はポカンとしていた。夕方になると右腕一本を捨ててしまいたくなるほどの激痛も、脳が記憶している。そんな記憶なんか忘れてしまえば良いんだ。切れた鍵板は手術をしてきちんと止めてもらった。後は腕のリハビリも終えて治療は完治しているのだと医師の言葉であり、何を今更と思い、自分で自分の頭を叩いてみた。忘れろと私が「脳」に指令を出しても事はそう簡単に答えがでない。整形担当医はその時「私の友人で漢方の医師がいて最近良い成績で仕事をしている人がいます。通ってみませんか。紹介状を書きましょう。」とその場でペンを走らせた。

 私は今、紹介してもらった東洋医学の漢方の医師に毎日、指圧ならず棒圧のような治療を受けるようになった。足首にツボを探してボールペンのような先で数ヶ所押し続ける。結果はその日によって楽になったり、やっぱり戻ってくるなと思えるような日があったり、まだトンネルの中にいる。「この治療法は指圧ですか?」医師の手元を見詰めていた私は、ぽっと軽く尋ねてみると「いえ指圧ではありません。遠絡療法といいます。」わざわざ名刺程の紙に(ペレス・銀座クリニック)と書き入れて「このペレス・銀座クリニックが大もとです。インターネットで検索してみてください。治療の内容がわかる筈です」と言って手渡してくれた。

 パソコンに自信のない私はまだ検索はしていないが、確信のある医師の一言に私の中に変化が起きた。この治療できっと良くなる。かなり時を必要とするかもしれないが、この厄介な記憶している痛みがきっと無くなる。私はそう信ずることにした。「こんな痛みくらいなんだ」開き直るようにして庭へ出て松の木を見上げた。小さいな緑の芽がつくんつくんと青空に向かって伸び出している。部屋の隅に梱包したままになっていた「マツ、針葉樹編」という教材を広げてみた。「松類」のページに赤松は時期を逃さず緑芽を摘み取るとなっている。

 かつて「うつ」状態になってから、活字のものときたら新聞すら読みたくなかったのに拡大鏡をかざして小さい文字の教材を拾い読みできる。文字が読める自分に歓喜した。眠っていた脳の一部が、痛みを堪えながらでも目を覚ましたのである。うれしくなって教材の全てをひろげてみると、通信教育だから答案用紙が入っていて、丸バツ式に解答を記入して事務局へ提出することになっていた。

 私は自分の生きてきた中に、様々なアンケートに丸やバツを記入したことがあっても、問題の項目をあてがわれ、正、誤を見つけ出すなど、一度も経験が無かった。試験勉強さえしたことのない私は、ここへきて入試問題と向き合っているような錯覚さえ覚えた。眠っていた好奇心にとろとろと火が付き、エンピツを持って答案用紙を覗いている自分があった。学習報告書と成績カードを同封して切手五十円を貼り、ポストへ投函した。1ヶ月ほどで学習報告書にところどころに赤丸が付けられ、六十二という採点がつけられて戻ってきた。小学生の頃、今でいう登校拒否をして期末の通信簿が全部零点だったことがある。さすがにがっかりして、自分の非を認めず、学校を恨んでそれきり子守りに出てしまった。勉学をほうり出して後悔という苦い思いをしたのは大人になってからで、戦時中だった当時、学校へ行かなくても誰からも咎められることさえなかった。

 半世紀以上生きてしまった今になって答案用紙を書くなんて、夢のようなことである。途中何度かリタイアしたくなるほど、気力の萎える日々もあったけれど、最終の七回目で返った成績カードに八十一点をもらい「よく頑張れました。」と誉めてあった。私はこれで忘れていた「達成感」をものにした。「痛み」と「うつ」からも解放される日が近いかもしれない。こうしてワープロ機の前に座ってキイを押さえるのも、三年ぶりである。ピンチには、必ずチャンスもある「うつ」の会で聞いた言葉を今再びとらえ直している。

 花ものの椿や、さつきが終わって我が家のささやかな庭にも、新緑の季節がやってきた。イチイやツゲの木の若葉も、にわかに背丈を伸ばし、ただでさえ込み合っている庭が狭く感じられる。根っこから切ってしまえばさっぱりするのにと思う木々もあったりする。しかし、・・・と自分に待ったをかけてみる。顔も名前も知らぬが、初めてこの庭を造った人は樹木の好きな人であったに違いない。その心持ちを大切にしたいと、錆ついた頭に活力を入れている。緑の少ないこの町に来て、時々小鳥の鳴き声などを聞いたりすると、ほっと癒しを覚える。住み始めて漸く三年目。知らない土地の川や駅や街並が少しずつ好きになれそうな、好きになって終の棲家にしなければと、覚悟のような気持ちが此の頃やっと定着しつつある。
平成十八年六月二十日記